書評『土の中の子供』 | 書籍流通の裏ブログ

書評『土の中の子供』

第133回芥川賞を受賞した『土の中の子供』を読んだ。


中村 文則
土の中の子供

年をとってからは、すっかり純文学を読まなくなった。
こらえ性がなくなって、ストーリーの展開しない物語は退屈してしまうのだ。


この『土の中の子供』の主人公は養父母に虐待された過去を持つ。幼き頃に両親に捨てられ、遠い親戚に預けれらる。そこで、殴る蹴るの暴力に晒され、挙句の果てには満足に食事すら与えられず放置される。


私にも息子がいる。幼児期というのは、子にとって親は絶対的な存在で、私が正しいと判断したことが正義であり、息子はそれに反抗も抵抗もできなかった。例え、私がどんな駄目な人間であったとしても、子供は親を疑うことを知らない。だからこそ、親は我が子を愛しく思えるのだ。


そんな可愛いはずの我が子に対して幼児虐待のニュースが後を絶たない。ただ、大抵は母親が育児ノイローゼであったり、同棲相手の男性が彼女の連れ子を虐待したりと、そこに虐待の動機を見ることができ、少しばかり安堵する。


しかし、結果に対して原因を探り得るのは大人だからであって、虐待されている幼児の心には、この理不尽な暴力がどう映っているのだろうか。そして虐待を受けた子供達は、その傷を心に残しどのように成長していくのか。


この物語の冒頭は暴力から始まる。既に成人している主人公は、自ら暴走族とのトラブルを起こす。鉄パイプを握った暴走族の圧倒的な暴力を前に、主人公はこう自己の内面を綴る。


(以下本文より抜粋)
『全身を蹴られながら、意識が遠くなっていくのを感じた。バイクの光に照らし出されながら、無残にされるがままになっている自分を、虫ケラのように感じた。私は興奮していた。この状況に似つかわしくない感情だと思った。(中略)彼らの攻撃はしつこく、激痛しか感じない。虫ケラでいることに、陶酔しているというわけでもなかった。何というか、きっとこの先にあるものを、私は待っていた。何か、私を待っているものが、そこに確かに存在するように思えた。それが何であるのか、まだはっきりしない。』


主人公は絶対的な暴力に身を浸し、その暴力の果てに見えるだろう何かを探す。幼児の頃に受けた理不尽で残虐な暴力の、その原因と結果を知ることで、いくばくかの安堵を得るように。


やはり純文学だけあって、とってつけたようなストーリー展開もなく、主人公の内面が綿々と綴られる。さりとて主人公に感情移入できるような物語ではなく、ただ、その暴力の果てに主人公が見たものが知りたくて読み進める。


小説を通して暗く重い話が続くのだが、最後の最後で主人公の人間らしさに触れることができたときには思わず涙がこぼれた。
この最後にでてくるエピソードの雰囲気で、今回の小説が描かれていたなら、もっと主人公に感情移入でき救いのある小説になっていただろう。
もっとも、それではお涙頂戴の大衆小説になってしまうのだろうが…。


軽く読み飛ばせる大衆文学と違い、純文学では難解な表現も多い。ただ、それを理解しようと小説に没頭することによって、気がつけばその世界に身を浸すことができるのだ。そして、その物語が結実した瞬間、小説でしか味わうことのできない感動を得ることができるだろう。


年を取って、小難しくて面倒臭い小説は敬遠していたが、たまにはこんな小説を読んでみるのもお薦めである。


(山下惣市)